神経は本当に戻らないのか
――ある男性が医学を静かに書き換えた話
彼は交通事故で第4・第5頸椎を損傷した。
四肢は動かない。
触覚と痛覚は残っていた。
医師は言った。
「神経損傷は不可逆的です」
しかし彼は、わずかに動いた指先を見逃さなかった。
反射だと説明されても、可能性だと信じた。
毎日、動かない指に命令を送り続けた。
その反復が、やがて現実になる。
指が動く。
手が動く。
腕が動く。
肩が上がる。
自分で体を洗い、食事ができるまで回復した。
これは神経可塑性という医学的現象で説明できる。
残存神経回路が再編され、新たなネットワークを作る。
だが、それだけでは足りない。
運動神経の回復と同時進行で
彼の闘いは、神経だけではなかった。
ステージ4の肝臓がん。
腫瘍マーカーは正常化。
糖尿病。
HbA1cは8.0台。
インスリン治療ではなく、
食事療法と自己管理で正常域まで回復させた。
しかも、運動機能の回復と同時進行で、である。
これは偶然ではない。
身体を動かす努力は代謝を変え、
自己効力感はホルモン環境を変える。
精神力は、医学的数値に影響する。
彼の反骨精神は、
神経にも、代謝にも作用していた。
出血大サービス
ある日、膀胱留置カテーテル交換時にかなりの出血があった。
尿は真っ赤だった。
さすがの彼も怒った。
「下手くそだな」
珍しい光景だった。
私は言った。
「先生、出血大サービスされたんですね。そんなのいらないのに」
彼は一瞬止まり、
そして大爆笑した。
彼はダジャレの天才だった。
だから私は、
彼の言語に合わせて声をかけた。
笑うと横隔膜が動く。
呼吸が深くなる。
副交感神経が優位になる。
笑いもまた、生理現象である。
病棟に笑いが響いた。
医学は誰が進歩させているのか
こうした症例が積み重なる。
「回復しないはず」の人が回復する。
「不可逆」とされたものが、揺らぐ。
再研究が始まり、
論文になり、
医学書の一文が書き換えられる。
医学の進歩という言葉がある。
だが進歩させているのは研究室だけではない。
患者の身体。
患者の日常的な努力。
患者の笑い。
彼のような人が、医学を前へ押している。
医師は預言者ではない
彼は要介護5である。
だが、
起き上がれる要介護5。
肩を動かせる要介護5。
笑える要介護5。
同じ介護度でも、中身は違う。
医学は確率を語る。
しかし人間は確率ではない。

彼は今日も動かなかった指でお箸を持ち、乗れなかった車椅子に乗り、食事をしている。