選択の日29日目 なんとなくトラブル

朝方、トイレに起きた。

私はタンクの蛇口を少し強くした。

理由はない。
ただ、なんとなく。

そのまま二度寝して、いつもの朝がやってきた。

テレビでは三月の寒波が来ると言っている。
関東でも雪が積もるかもしれないらしい。

「灯油を買っておかなきゃ」

配達の電話をすると、ほどなくしてマンションの一階に灯油が届いた。
十八リットルのポリタンクを二つ抱えて玄関に入ろうとしたとき、隣の住人に声をかけられた。

「ちょっと見てもらえないかな?」

彼の部屋のトイレの上から、水がぽたぽた滴り落ちている。

「上やと思うねん。なんかあらへん?」

彼は、このマンションで私が唯一付き合っている人だ。
私の真下の階に住んでいる。

ただし、彼は酒を飲むと私を捕まえる。
酔っぱらいの相手をさせられることも多く、私は少し辟易していた。

それでも、
「まあ何かあったときのためだ」
そう思って付き合っていた。

ある日、彼はこんな話をしてきた。

「誰にも言ったらあかんで。管理人おるやろ。
あの人、彼女が二人おんねんて」

どうでもいい話だった。

帰宅して、私は娘に言った。

「管理人さん、彼女が二人いるんだって」

娘は言った。

「どうでもいい話」

娘は彼が嫌いだった。
とにかく酔っぱらいが嫌いなのだ。

数か月後。
娘はその管理人本人に言ってしまった。

「彼女が二人いるんだってね。私とも遊びませんか?」

娘には悪意があった。
隣の彼が、おしゃべりで信用できない人だということを伝えたかったのだ。

噂話というものは不思議で、
必ず本人の耳に届く。

その頃から、隣の彼はよそよそしくなった。

そして今日。
その彼の家で水漏れが起きた。

私は覚悟した。

(あー、賠償金かな)

管理人がやってきた。
今日は正社員の人だった。頼りがいがある。

私たちの階を調べ、
そして我が家の水回りも確認した。

気がつくと、我が家のトイレ周りがびしょびしょだった。

昨夜のことが頭をよぎる。

なんとなく。
蛇口を少し強くしたこと。

「濡れてますね」

管理人は事務的に言った。

三時間ほどして、我が家のチャイムが鳴った。

「トイレの水を流してください。
それで漏れなければ原因不明です」

私は水を流した。

水漏れは起きなかった。

原因不明。

私は思った。
もしかすると原因は私かもしれない。

でも、
管理人は「原因不明」という判断を選んだ。

白黒つかない。

白黒つけない。

欧米的では、
物事はたいてい「Yes」か「No」だ。

中国でも同じだ。
是か、非か。

しかし日本語には、
もう一つの場所がある。

「どちらとも言えない」
「まあ、そうとも言える」
「今回は原因不明で」

イエスでもない。
ノーでもない。

多くの外国人は、この答えに戸惑う。

しかし日本人同士は困らない。

あっさりと、その中間を選ぶ。

今回の水漏れもそうだった。

原因不明。

それは、
白でも黒でもない。

ちょうど真ん中の選択だった。

そのとき、私は子供のころの出来事を思い出した。

父が文鳥の雛を買ってきてくれたことがあった。

小さくて、温かくて、
それはとても可愛かった。

私はその文鳥を両手で包み込むように抱えて、
そのまま眠ってしまった。

朝起きると、
私の布団の中で文鳥はぺしゃんこになっていた。

父は何も言わなかった。

そして新しい文鳥の雛をまた買ってきてくれた。

しかし私は、
また同じことをしてしまった。

文鳥はまた、
私の布団の中でおせんべいになっていた。

私は大泣きした。

そのとき父は、生まれて初めて私のほっぺを叩いた。

そして言った。

「二度同じ失敗をするのは大馬鹿だ」

私はまた大泣きした。

叩かれたからではない。

父の言葉が胸に刺さったからだ。

私は失敗から何も学んでいなかった。

子供ながらに、
自分が大馬鹿だと思った。

失敗は誰でもする。

しかし同じ失敗を繰り返すとき、
そこではじめて責任が生まれる。

管理人は今回、
「原因不明」と言った。

白黒はつけなかった。

でもきっと覚えている。

もし同じことが起きたら、
そのときは白黒つけるのだろう。

人生には時々、
白黒つけないほうが穏やかに収まる日がある。

今日は、そんな
選択の日だった。

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