通院と都市部
どんよりとした曇り空の朝。
私たちは都市部へ向かって高速道路を走っていた。
明日は娘の通院日。
せっかくだから前日に出発し、一泊して少し遊ぼう。
そんな小さな計画だ。
串本町を抜けると、ロケット発射台への入り口が見える。
昨日はきっと渋滞していたのだろう。
太平洋の縁に沿って、くねくねと曲がる道。
本州最南端の景色は、やはり美しい。
車内に流れたのは宇多田ヒカルの曲だった。
「この曲は、お母さんが亡くなったときに作った歌なの」
娘がそう言う。
“もう二度とあなたに会えない”――
胸に刺さる歌詞。
「ママ、死なないでね」
「まだ死なないよ」
続いて流れたのはマイケル・ジャクソン。
藤圭子も、マイケルも、もういない。
でも今は、生きて並んで座っている。
和歌山市内に着いた。
「あっという間」ではなかった。
5時間かかった。
娘の第一目的地は、ファッションセンターしまむら。
彼女はシマラーだ。
「デブにおしゃれはしてはいけないのか?」
ぽつりと呟く。
でも、ぽっちゃり向けの服がちゃんと並んでいる。
二人で選ぶ時間は、現実を忘れられる時間だ。
一着はイメージ違いで返却。
代わりに見つけたベストを差し出すと、
「さすがママ、おしゃれ!」
そのまま着てレジへ。
タグを外してもらった。
次はABC-MART。
スニーカーを見ながら娘が言う。
「こんなに高い靴、買ってもらってたんだね」
万単位の靴は、もう選ばないらしい。
私は心の中で、こっそり良いものを買おうと思った。
夕食はサイゼリヤ。
平成の匂いが残る店内。
配膳ロボットもいるけれど、私は人の気配のほうが好きだ。
娘のテンションは最高潮だった。
食事をしながら、ふと思い出した。
「あ……iPad、喫煙所に忘れた」
スプーンを持つ手が止まる。
「あるかなぁ」と娘。
「和歌山は絶対ある」と私。
根拠はない。
でも、そう思えた。
広いショッピングセンターの喫煙所へ向かう。
少し早足になる。
もし無かったら?
データは?
仕事は?
喫煙所のドアを開ける。
誰もいない空間。
そして――
私が置いたままのiPadが、そのまま椅子の上にあった。
待っていてくれた。
娘が笑う。
「ほらね、東京だったら秒でなくなっていたよ」
胸の奥がじんわり温かくなる。
コインパーキングに車を停め、次はブックオフへ向かうはずだった。
精算を済ませ発進した瞬間、
車の底から低い金属音。
再びバーが上がってしまった。
警備会社へ連絡。
小雨の中、警備員が駆けつける。
約30分、濡れながら作業。
そして最後に言った。
「車の下を点検させてください」
びしょ濡れのアスファルトに寝転び、
ライトで車底を照らす姿。
大変な仕事だ。
私は在宅ワークを探している。
雨風をしのげる部屋で働きたいと思っている。
でも、こういう仕事を選んでくれる人がいるから、
私たちは安心して暮らせる。
浮かれていた母と娘は、少し神妙になった。
ホテルに着いた。
昭和の造りの、どこか懐かしい空間。
ここは初めてではない。
1年半前、東京から和歌山へ娘が移住すると決めた時、
担当医には強く反対された。
それでも私たちは和歌山に来た。
クロザリルを処方できる病院は5か所。
受け入れてくれたのは、たった1つだった。
返事を待ちながら、
私たちはこのホテルに1週間滞在した。
あの時は、祈るような気持ちで毎日を過ごしていた。
病院のソーシャルワーカーから電話が来た。
「1時半までに来れますか?」
やっと受け入れてくれる返事だった。
「はい、はい、行きます。1時間前でも行けます」
やったー。
今夜は、少し違う。
娘がお風呂から顔を出して言う。
「見て見て、プリティーウーマンでしょ」
笑ってポーズを取る。
通院前日のプチ選択。
都市部で浮かれ、
警備員の仕事ぶりに心を打たれ、
そして今、
忘れ物がそのまま残っているという事実。
でも、今日この瞬間は、ちゃんとここにある。
iPadを抱えながら思った。
和歌山、やっぱり好きだな。
都市部の夜に溶ける疲労。
明日は通院。
今日は、その前の小さな自由。
これもまた、私たちの選択である。