歯医者、技術も自分を大切にすることも体得完成版
「ママ、忙しくなかったらコーヒー入れて」
娘はベランダで一人、座っていた。
ベランダからは海と山が一望できる。デビュー前のイルカたちも見える。
我が家の朝はのんびりしている。
私は無職。
我が家はいわば年金ニート。
それでも私は忙しかった。
在宅ワークを選んだ私は、毎日パソコンの前に10時間以上張り付いていた。
今日はデザインをやってみよう。
お気に入りの写真に文字を入れる。
Canvaを使ったデザイン作成だ。
AIはすごい。
ChatGPTの言う通り操作すると、写真に文字が現れる。
コピー&ペーストすると、今度はイラストになる。
「なんだ、簡単じゃない」
私は600枚もの写真を持っていた。
これはいろいろ使えそうだ。
そういえばデザインのスカウトが来ていた。
ココナラだったと思う。
返信しなければ。
しかしココナラはAI作品の出品ができない仕組みになっていた。
ああ、せっかく作ったのに。
さっとAIで作っただけなのに、何時間もかけた作品のような気持ちになっている自分を、変なやつだなと思った。
そろそろ時間だ。
私にとって処刑台に立つような時間が来た。
歯医者である。
私は歯医者が大嫌いだ。
小学生の頃、宿題として歯の治療があり、仕方なく通った。
キーンという音。
心に突き刺さるような感覚。
それ以来、親知らずを抜く以外、歯の治療は一切してこなかった。
61歳までよくもったものだ。
激痛に観念して治療を始めても、予約して行かない。
痛い時だけ行き、痛みが引けば行かない。
完全な不良患者だった。
でも今回は違う。
何年かかっても歯をきれいにしようと思った。
90歳まで生きた人の後悔第1位は、歯医者にきちんと通えばよかったことだという。
仕事柄、口腔ケアは散々してきた。
正直、総入れ歯のほうが楽だとも思っていた。
認知症患者さんによく噛まれた。
インプラントの人は特に大変だ。
ガーゼに強く噛みつき、なかなか離してくれない。
数分なのに、何十分にも感じる。
その点、総入れ歯は痛くない。
だから私は将来は総入れ歯でいいと思っていた。
しかし神経がやられる痛みは別だった。
生まれて初めての激痛に、私は完全に観念した。
新しい母の家の近くの歯医者を選んだ。
母は85歳だが、すべて自分の歯で食べている。
それは、自分を大切にしてきた証拠だ。
自分を大切にすることも体得だ。
海岸線と山道を走る。
早咲きの桜は満開。
山桜はまだ蕾。
寒椿は枯れかけている。
暖かいのか寒いのかわからない。
南紀の春は早い。
そして私は処刑台に座った。
歯科医師は無口な人だった。
予約を守らない私にも、淡々と対応し、淡々と治療を進める。
「痛いですよ」
麻酔の注射。
歯茎に刺さる。
ツン、とした痛み。
楊枝でつつかれた程度だった。
キーン、キーン。
削る音が頭に響く。
こんなに丁寧に治療してくれている。
私はずっと「怖い」で逃げていたのだ。
看護師だった頃、処置をじっと見つめていた患者さんを思い出した。
私には日常でも、患者さんにとっては恐怖だった。
終わると皆、頭を下げて「ありがとうございます」と言った。
患者になった今、その意味が分かる。
歯医者さんの技術はすごい。
その後、つねちゃんの家で昼食を食べた。
小鯵は見事にさばかれ、寿司になっていた。
私の味とは全く違う。
「数が違うやろ。私、一日200匹さばいたことあるねん」
経験則。
技術は一夜では身につかない。
晩ご飯まで持たせてもらい帰宅した。
この地域の伝統料理「お混ぜ」をいただく。
何十年、何百年と受け継がれてきた味。
つねちゃんの料理は、もはや技術職だ。
お混ぜを食べていると、常ちゃんからLINE通話の着信があった。
カメラ越しに、食べている私が映る。
「ママ、可愛いでしょう」
私がそう言うと、常ちゃんは一言。
「分からん」
どうやらお風呂上がりに昼間のLINEに気づき、返信の代わりに通話をかけてきたらしい。
しかも裸のままで。
律儀というか何というか。
心の中で「服を着てから通話しなさいよ」と思ったが、口には出さなかった。
常ちゃんはご主人に携帯を持たせ、自分は映らないようにしている。
「よう食べとるな。そんなに入るもんかのう」
画面の向こうで笑っている。
本当に、常ちゃんはすごい人。
私のことを可愛いと常ちゃんは言ってくれなかったが、私と娘は心から常ちゃんを可愛いと想っている。
寝る前、パソコンを確認すると、クラウドワークスからデザインのスカウトが来ていた。
返信を待ってくれている。
でも私は寝ることを選んだ。
これまではインディード中心だったが、他の媒体も使ってみようと思った。
慣れではない。
体得だ。
お金にならなくてもいい。
体が覚えるまで、パソコンを触り続けよう。