今朝、私は薬箱を探していた。
私はいろいろな薬を持っている。
困った人の応急処置用だ。
昨日会った薬剤師のおじいさんに、
二種類の薬を渡そうと思ったからだ。
どうして私は、いつもこうなのだろう。
自分も必要になるかもしれないのに、
困っている人に渡してしまう。
そして本当に困ったとき、
私の手元には何も残っていない。
子どもの頃、『わらしべ長者』の絵本が好きだった。
彼は必要もない一本のわらを、
頼まれて人に差し上げる。
その人にとっては、本当に必要な一本だった。
彼は道で手に入れたものを、
必要な人へ渡し続ける人生だった。
私はあの物語が好きだった。
そして今日の一大イベントが始まった。
つねちゃんが、ドコモからソフトバンクへ乗り換える日だ。
理由は、
「安くなるから」。
娘と三人で車を走らせ、ソフトバンクへ向かった。
つねちゃんは、ものすごく緊張していた。
私たちの日本語が、
彼女には外国語のように聞こえていたのかもしれない。
言われるままに書類を出し、サインをする。
内容は、ほとんど理解していない様子だった。
はっきりしたことは二つ。
七万円ほどした携帯が、
約二万円で新しくなったこと。
そして通信料が、
月千円ほど安くなったこと。
昼食の時間になった。
少しでもこの緊張から解放してあげたくて、
つねちゃんを「はま寿司」へ連れて行った。
けれど、ここでもつねちゃんは緊張していた。
タッチパネル注文。
レーンを流れてくる寿司。
「私、何でも食べるよ」
娘は慣れた手つきでどんどん注文し、ぱくぱく食べている。
でも今日は少し違った。
つねちゃんが食べたいものが、
ことごとく娘の口には合わなかったのだ。
なにしろ、つねちゃんは
勝浦の生マグロをほぼ毎日食べている人である。
「うどんが食べたい」
やっぱり。
「茶碗蒸しは?」
「食べる」
茶碗蒸しをひと口食べて、
初めて「おいしい」と言った。
私は大好きな肝類を頼み、
チーズケーキといちごパフェを三人で分け合った。
そのとき、つねちゃんがぽつりと言った。
「疲れるねえ。」
再びソフトバンクへ戻り、最終手続き。
その間に、私はひらめいてしまった。
カラオケに行きたい。
「つねちゃん、一時間だけ一緒にカラオケしてくれる?」
「いいで。」
娘はアメリカのヒット曲を英語で歌っている。
つねちゃんはカラオケボックスで
どうしたらいいのか分からず固まっていた。
「歌を忘れたわ。」
長年、介護中心の生活。
遊びとは無縁だったのだろう。
私は美空ひばり、森昌子、山口百恵など
昭和の歌を入れた。
隣でつねちゃんも一緒に歌い始めた。
「銀恋、うたおうよ。」
男女パートに分かれ、
本物のデュエット。
「ここ、でーへん」
と言いながら、ちゃんと歌えている。
ソフトドリンクとソフトクリーム。
つねちゃんは三杯も食べた。
「さっぱりしてておいしいのー。」
昭和14年生まれ。
昭和39年生まれ。
平成8年生まれ。
三世代の人生が、歌とともに流れていた。
カラオケを出ると、つねちゃんが言った。
「さんま寿司二十匹作るより疲れたわ。」
少し申し訳なく思った。
けれど、その罪悪感はすぐ消えた。
隣のセカンドストリートに、
娘とつねちゃんが入っていったからだ。
初めてのセカンドストリート。
「安いのー。」
私は心の中で、
元気だと安心した。
帰宅。
私はご主人に一生懸命謝った。
「ごめんね。つねちゃんを誘拐しようと思ったけど、
ご主人の顔が浮かんで戻ってきたの。」
ご主人は言った。
「もうベッドまでびしょびしょや。」
六時間。
寂しかったのだろう。
私はすぐにおむつを交換した。
布団までは濡れていなかった。
「気持ち良くなった。」
そう言ってくれた。
張り詰めていた空気が、
ふっと和んだ。
つねちゃんは新しいスマホを開き、
孫の動画を見せてくれた。
「見て。画面、大きくなったやろ。」
娘は図々しく
「りんごちょうだい」
と言い、三つ持たせてもらった。
帰宅すると、
私には白髪染めが待っていた。
明日はリモートワークの面談だ。
今日は、選択の連続だった。
私は浴室へ向かい、白髪染めを流した。
初めて、染めた後にシャンプーをしなかった。
それでも髪はさらさらだった。
白髪も消えていた。
今日、私たち三人は
確かな愛を育んでいた。
まるで春のような、あたたかい一日。
猛烈な睡魔に襲われながら、
私は眠りについた。