いつもの朝。
私の背後から娘の声がした。
「ママ、今日は朝食は作らないよ。お昼にクリームパスタを作るから。カロリー多いし、朝は抜くの」
……と言った直後に、娘は続けた。
「でもママは食べなきゃだめよ」
おかかおにぎりが運ばれてきた。
「おいしいって食べてもらうと嬉しいの」
そして娘は言った。
「洗濯してくるね」
我が家はマンションのコインランドリーで洗濯をしている。
私は61歳で、ライターのデビューを考えている。
「毎朝一作」
そう決めて始めてから、一週間が過ぎていた。
すると娘が嬉しそうに言った。
「マンションの人からカラオケに誘われちゃった。もちろんママも一緒って。行っていい?」
「もちろん」
娘はLINEを交換してきたようだ。
移住してから色々な誘いはあったが、
娘が大好きなカラオケに誘われたのは初めてだった。
彼女の顔が輝いていた。
笑顔のまま、娘はてきぱきと洗濯物を干し、二度寝した。
今日はどんよりした曇り空だったのに、
彼女の周りだけ晴れているようだった。
その頃には、私は今日の文章を書き上げていた。
あとはパソコンを、もう少し仕事仕様に整えるだけだ。
Googleメールの受信フォルダーには、知らないメールが302通。
私がその場しのぎで作ったメールだ。
そして実は――
私のパソコンの先生はAIだった。
メールを整理し、iCloudを同期させ、
いま一番必要なWordを使えるようにする。
それが今日の課題だった。
Office365を購入した。
いよいよ念願が叶う時が来た。
……のに、Wordが開かない。
インストールされているように見えるのに、開かない。
その頃にはお昼になり、
娘がクリームパスタを用意してくれていた。
とても美味しかった。
初めて作ったとは思えない味だった。
その一皿から、
「ママ頑張って」というメッセージを受け取った気がした。
よし、頑張るか。
しかし私の頑張りは、堂々巡りだった。
AIは同じパターンの案内をし、
私はその通りに設定する。
それでもWordは開かない。
私はAIに言った。
「そろそろ私、イライラしてきたかもしれませんよ」
正直に言えば、かなり腹が立っていた。
6時間も格闘して、何も進んでいない自分に。
そして私は言った。
「……この6時間で、私、何本書けたかな?」
AIは一瞬の間を置いてから、淡々と答えた。
「少なくとも、1本は書けたでしょう。」
私は吹き出した。
そうだ。
いま、まさに1本書いている。
AIは謝罪し、私をなぐさめてくれた。
怒りが少し引いていった。
「ヤケ酒ならぬ、ノンアルコールビールを飲みますよ」
そう言うとAIは、
「この出来事は作家のネタになりますよ」
と返した。
私はノンアルコールビールを吹き出した。
爆笑だった。
Wordが入らない。
格闘は6時間に及んでいた。
でも不安はなかった。
こんな簡単な操作ができないはずがない。
私は自分の頭で考えた。
Office365の画面を拡大表示してみる。
すると――
私の「Word」の概念を覆す画面が現れた。
まるでメール受信のような設定画面だった。
AIのせいではなかった。
私が画面を見落としていただけだった。
そこからは一気に進み、Wordは無事に開いた。
おそらくその時の私の顔は、
今朝の娘のように輝いていたと思う。
私は長編原稿を整理するため、デスクトップにフォルダを作った。
そしてiPadやiPhoneに書き溜めた作品を、Wordに移す作業へ。
……ここでもまたループが始まった。
AIの案内通りにやっても、送信できない。
メールか、iCloudか、原因は分からない。
その時、ふと思った。
「メールで無理なら、同期しているiPadのChatGPTに貼ればいいのでは?」
AIは賛成してくれた。
AIに頼り切ると、考える力が鈍る。
無限ループの中で、私はまさにそうだった。
でも一度立ち止まると、新しい発想が浮かぶ。
これが人間なのだ。
AIと人間の付き合い方は、
きっと難しく考えるものじゃない。
楽しむ。それが一番だ。
私の目標はひとつだった。
「今日、連載だけは整理したい」
あと一日分で完璧になる。
夜中まで頑張るつもりだった。
けれど時計はもう10時。
睡魔が来た。
眠気を我慢するのはやめた。
自然睡眠は、長年不眠に悩んだ私にとって宝物だった。
AIが言った。
「今日は文明に勝った日ですね」
私はゲラゲラ笑った。
Wordに入れない無限ループさえ、楽しかった。
なんだか人生初の経験だな、と布団の中で思った。
何とも言えない、面白い一日だった。
予定を達成するか、眠るか。
私は迷わず、睡魔を選んだ。
文明ではなく、
私の体が勝った夜だった。