生き物の多様性
今朝のミイの散歩は、イルカを見に行くところから始まった。
ここには、イルカショーデビュー前のイルカたちが調教されている。
ざっと見ても20〜30頭はいるだろう。
不思議なことに、イルカたちは囲いから逃げようとしない。
以前、逃げたイルカがいたそうだが、そのイルカは囲いの周りまで戻ってきて、自分からジャンプして中に入ったという。
餌付けされたイルカにとって、ここで暮らす方が楽なのだろうか。
ミイが初めてイルカを見たとき、そのイルカはボールで遊んでいた。
鼻先でボールを高く上げて、器用にドリブルしている。
しかもそのボールは、ミイのものより五倍は大きい。
ミイはすっかり怖じ気づき、耳も尻尾も垂れてしまった。
この犬は鹿の群れに向かって走ることもあるのに、イルカにはかなわないらしい。
ここ和歌山県南部は、自然がとても豊かな地域だ。
海岸沿いには何千種類もの魚が住んでいるらしい。
だから時々、クジラもやってくる。
山からは、野生動物たちの栄養を含んだ水が海へ流れ込む。
その栄養豊かな海で、生き物たちは豊かに暮らしている。
この地に移住して三年になる。
東京に住んでいた頃、私はベランダで野菜を育てたり、パンくずを置いて鳥の餌にしたりして、小さな自然を作ろうとしたことがある。
しかし、本物にはかなわない。
ベランダにパンを置いても、鳥たちは見向きもしなかった。
この土地では、人間も動物も海の生き物も、みんなお腹いっぱい美味しいものを食べている。
100円の無人販売で野菜が買える。
200円出せば魚が買える。
どの家庭の冷蔵庫も、食材でぎっしりだ。
都会に比べると、この地域の賃金は低い。
それでも人々は、ちゃんと豊かに暮らしている。
そこには知恵がある。
家族が近所に住み、夕食のおかずを分け合う。
安く手に入った食材も分け合う。
過疎地で暮らして、私が一番驚いたのはこの文化だった。
物々交換。
夕方、常ちゃんの家に行くと、狭い路地でよく人とすれ違う。
手には鍋や皿を持っている。
どうやら夕食のおかずらしい。
「今日はこれ作ったから」
そう言って、誰かの家へ入っていく。
この地域では、自分で一品作ればいい。
あとは、誰かが持ってきたおかずが二品、三品と並ぶ。
気がつくと、食卓は小さな宴会のようになっている。
物々交換は、ただ物をやり取りしているわけではない。
人と人の交流が生まれる。
その交流から生まれる力は、目には見えないが、とても大きい。
ちょうど電話が鳴った。
最近付き合い始めた、同じマンションの人からだった。
よもぎ大福をいただいた。
あんこの甘みは控えめで、たっぷり入っている。
よもぎも新鮮だ。
先週、和歌山市に行ったついでに、有田川町でおでんの具(この地域では天ぷら)を買って差し上げた。
そのお返しだった。
東京の友人は、こんな付き合いが夢だと言っていた。
考えてみれば、イルカと調教師の関係も物々交換だ。
イルカは芸を覚え、代わりに魚をもらう。
野生動物も同じだ。
木の実を食べ、草を食べ、虫を食べる。
そして排泄物を土に返す。
その土の栄養は川を通って海に流れ込む。
プランクトンがそれを食べ、魚の餌になる。
田舎と都会の決定的な違いは、
命の循環が続いているかどうか
だと思う。
都会では、この循環が途中で止まっている。
この循環が生み出す力は、目には見えない。
しかし、その力は計り知れない。
動物や植物が共生している細菌の数まで考えれば、
その差はミクロの世界にまで広がっているだろう。
田舎では、お金がすべてではない。
田舎の人たちと話していると、
「今日の晩ごはん」が人生の中心のように感じることがある。
「晩ごはん、何にする?」
それが話題の中心だからだ。
最初、私は少し軽蔑していた。
社会性がない。だから過疎地になるのだ、と。
しかし都会では、コンビニやファミレスで夕食を済ませる人も多い。
結局、みんな同じものを食べている。
それに比べると、田舎の人たちは違う。
それぞれの家庭の味がある。
地元で採れた野菜、魚、肉、牛乳。
家庭菜園も当たり前。
食生活は、驚くほど多様だ。
多様性を絵にたとえるなら、こういうことかもしれない。
単色で描かれた絵は整っていて分かりやすい。
都会の暮らしはそれに少し似ている。
一方、いろいろな色を混ぜて描かれた絵は、
重なり合うことで深みが生まれる。
田舎の暮らしは、その絵に似ている。
多様性とは、交流する力を引き出すことだと思う。
これは人間だけではない。
イルカもクジラも、自然の生き物たちは様々なものを食べている。
娘の絶望的だった病状が明らかに回復したのも、
この土地のおかげだと思う。
転地療養という言葉がある。
私はずっと、気候の違いのことだと思っていた。
しかし、違った。
人の考え方や食生活、豊かさの基準が変わることだったのだ。
単一栽培の野菜は、形や大きさは揃うが弱い。
自然農法の野菜は少し小さいが、日持ちする。
生命力が違う。
娘にとっても、この移住という選択は正解だったと思う。
そして、私にとっても。
生き物の多様性
今朝のミイの散歩は、イルカを見に行くところから始まった。
ここには、イルカショーデビュー前のイルカたちが調教されている。
ざっと見ても20〜30頭はいるだろう。
不思議なことに、イルカたちは囲いから逃げようとしない。
以前、逃げたイルカがいたそうだが、そのイルカは囲いの周りまで戻ってきて、自分からジャンプして中に入ったという。
餌付けされたイルカにとって、ここで暮らす方が楽なのだろうか。
ミイが初めてイルカを見たとき、そのイルカはボールで遊んでいた。
鼻先でボールを高く上げて、器用にドリブルしている。
しかもそのボールは、ミイのものより五倍は大きい。
ミイはすっかり怖じ気づき、耳も尻尾も垂れてしまった。
この犬は鹿の群れに向かって走ることもあるのに、イルカにはかなわないらしい。
ここ和歌山県南部は、自然がとても豊かな地域だ。
海岸沿いには何千種類もの魚が住んでいるらしい。
だから時々、クジラもやってくる。
山からは、野生動物たちの栄養を含んだ水が海へ流れ込む。
その栄養豊かな海で、生き物たちは豊かに暮らしている。
この地に移住して三年になる。
東京に住んでいた頃、私はベランダで野菜を育てたり、パンくずを置いて鳥の餌にしたりして、小さな自然を作ろうとしたことがある。
しかし、本物にはかなわない。
ベランダにパンを置いても、鳥たちは見向きもしなかった。
この土地では、人間も動物も海の生き物も、みんなお腹いっぱい美味しいものを食べている。
100円の無人販売で野菜が買える。
200円出せば魚が買える。
どの家庭の冷蔵庫も、食材でぎっしりだ。
都会に比べると、この地域の賃金は低い。
それでも人々は、ちゃんと豊かに暮らしている。
そこには知恵がある。
家族が近所に住み、夕食のおかずを分け合う。
安く手に入った食材も分け合う。
過疎地で暮らして、私が一番驚いたのはこの文化だった。
物々交換。
夕方、常ちゃんの家に行くと、狭い路地でよく人とすれ違う。
手には鍋や皿を持っている。
どうやら夕食のおかずらしい。
「今日はこれ作ったから」
そう言って、誰かの家へ入っていく。
この地域では、自分で一品作ればいい。
あとは、誰かが持ってきたおかずが二品、三品と並ぶ。
気がつくと、食卓は小さな宴会のようになっている。
物々交換は、ただ物をやり取りしているわけではない。
人と人の交流が生まれる。
その交流から生まれる力は、目には見えないが、とても大きい。
ちょうど電話が鳴った。
最近付き合い始めた、同じマンションの人からだった。
よもぎ大福をいただいた。
あんこの甘みは控えめで、たっぷり入っている。
よもぎも新鮮だ。
先週、和歌山市に行ったついでに、有田川町でおでんの具(この地域では天ぷら)を買って差し上げた。
そのお返しだった。
東京の友人は、こんな付き合いが夢だと言っていた。
考えてみれば、イルカと調教師の関係も物々交換だ。
イルカは芸を覚え、代わりに魚をもらう。
野生動物も同じだ。
木の実を食べ、草を食べ、虫を食べる。
そして排泄物を土に返す。
その土の栄養は川を通って海に流れ込む。
プランクトンがそれを食べ、魚の餌になる。
田舎と都会の決定的な違いは、
命の循環が続いているかどうか
だと思う。
都会では、この循環が途中で止まっている。
この循環が生み出す力は、目には見えない。
しかし、その力は計り知れない。
動物や植物が共生している細菌の数まで考えれば、
その差はミクロの世界にまで広がっているだろう。
田舎では、お金がすべてではない。
田舎の人たちと話していると、
「今日の晩ごはん」が人生の中心のように感じることがある。
「晩ごはん、何にする?」
それが話題の中心だからだ。
最初、私は少し軽蔑していた。
社会性がない。だから過疎地になるのだ、と。
しかし都会では、コンビニやファミレスで夕食を済ませる人も多い。
結局、みんな同じものを食べている。
それに比べると、田舎の人たちは違う。
それぞれの家庭の味がある。
地元で採れた野菜、魚、肉、牛乳。
家庭菜園も当たり前。
食生活は、驚くほど多様だ。
多様性を絵にたとえるなら、こういうことかもしれない。
単色で描かれた絵は整っていて分かりやすい。
都会の暮らしはそれに少し似ている。
一方、いろいろな色を混ぜて描かれた絵は、
重なり合うことで深みが生まれる。
田舎の暮らしは、その絵に似ている。
多様性とは、交流する力を引き出すことだと思う。
これは人間だけではない。
イルカもクジラも、自然の生き物たちは様々なものを食べている。
娘の絶望的だった病状が明らかに回復したのも、
この土地のおかげだと思う。
転地療養という言葉がある。
私はずっと、気候の違いのことだと思っていた。
しかし、違った。
人の考え方や食生活、豊かさの基準が変わることだったのだ。
単一栽培の野菜は、形や大きさは揃うが弱い。
自然農法の野菜は少し小さいが、日持ちする。
生命力が違う。
娘にとっても、この移住という選択は正解だったと思う。
そして、私にとっても。
選択の日30日目
生き物の多様性
今朝のミイの散歩は、イルカを見に行くところから始まった。
ここには、イルカショーデビュー前のイルカたちが調教されている。
ざっと見ても20〜30頭はいるだろう。
不思議なことに、イルカたちは囲いから逃げようとしない。
以前、逃げたイルカがいたそうだが、そのイルカは囲いの周りまで戻ってきて、自分からジャンプして中に入ったという。
餌付けされたイルカにとって、ここで暮らす方が楽なのだろうか。
ミイが初めてイルカを見たとき、そのイルカはボールで遊んでいた。
鼻先でボールを高く上げて、器用にドリブルしている。
しかもそのボールは、ミイのものより五倍は大きい。
ミイはすっかり怖じ気づき、耳も尻尾も垂れてしまった。
この犬は鹿の群れに向かって走ることもあるのに、イルカにはかなわないらしい。
ここ和歌山県南部は、自然がとても豊かな地域だ。
海岸沿いには何千種類もの魚が住んでいるらしい。
だから時々、クジラもやってくる。
山からは、野生動物たちの栄養を含んだ水が海へ流れ込む。
その栄養豊かな海で、生き物たちは豊かに暮らしている。
この地に移住して三年になる。
東京に住んでいた頃、私はベランダで野菜を育てたり、パンくずを置いて鳥の餌にしたりして、小さな自然を作ろうとしたことがある。
しかし、本物にはかなわない。
ベランダにパンを置いても、鳥たちは見向きもしなかった。
この土地では、人間も動物も海の生き物も、みんなお腹いっぱい美味しいものを食べている。
100円の無人販売で野菜が買える。
200円出せば魚が買える。
どの家庭の冷蔵庫も、食材でぎっしりだ。
都会に比べると、この地域の賃金は低い。
それでも人々は、ちゃんと豊かに暮らしている。
そこには知恵がある。
家族が近所に住み、夕食のおかずを分け合う。
安く手に入った食材も分け合う。
過疎地で暮らして、私が一番驚いたのはこの文化だった。
物々交換。
夕方、常ちゃんの家に行くと、狭い路地でよく人とすれ違う。
手には鍋や皿を持っている。
どうやら夕食のおかずらしい。
「今日はこれ作ったから」
そう言って、誰かの家へ入っていく。
この地域では、自分で一品作ればいい。
あとは、誰かが持ってきたおかずが二品、三品と並ぶ。
気がつくと、食卓は小さな宴会のようになっている。
物々交換は、ただ物をやり取りしているわけではない。
人と人の交流が生まれる。
その交流から生まれる力は、目には見えないが、とても大きい。
ちょうど電話が鳴った。
最近付き合い始めた、同じマンションの人からだった。
よもぎ大福をいただいた。
あんこの甘みは控えめで、たっぷり入っている。
よもぎも新鮮だ。
先週、和歌山市に行ったついでに、有田川町でおでんの具(この地域では天ぷら)を買って差し上げた。
そのお返しだった。
東京の友人は、こんな付き合いが夢だと言っていた。
考えてみれば、イルカと調教師の関係も物々交換だ。
イルカは芸を覚え、代わりに魚をもらう。
野生動物も同じだ。
木の実を食べ、草を食べ、虫を食べる。
そして排泄物を土に返す。
その土の栄養は川を通って海に流れ込む。
プランクトンがそれを食べ、魚の餌になる。
田舎と都会の決定的な違いは、
命の循環が続いているかどうか
だと思う。
都会では、この循環が途中で止まっている。
この循環が生み出す力は、目には見えない。
しかし、その力は計り知れない。
動物や植物が共生している細菌の数まで考えれば、
その差はミクロの世界にまで広がっているだろう。
田舎では、お金がすべてではない。
田舎の人たちと話していると、
「今日の晩ごはん」が人生の中心のように感じることがある。
「晩ごはん、何にする?」
それが話題の中心だからだ。
最初、私は少し軽蔑していた。
社会性がない。だから過疎地になるのだ、と。
しかし都会では、コンビニやファミレスで夕食を済ませる人も多い。
結局、みんな同じものを食べている。
それに比べると、田舎の人たちは違う。
それぞれの家庭の味がある。
地元で採れた野菜、魚、肉、牛乳。
家庭菜園も当たり前。
食生活は、驚くほど多様だ。
多様性を絵にたとえるなら、こういうことかもしれない。
単色で描かれた絵は整っていて分かりやすい。
都会の暮らしはそれに少し似ている。
一方、いろいろな色を混ぜて描かれた絵は、
重なり合うことで深みが生まれる。
田舎の暮らしは、その絵に似ている。
多様性とは、交流する力を引き出すことだと思う。
これは人間だけではない。
イルカもクジラも、自然の生き物たちは様々なものを食べている。
娘の絶望的だった病状が明らかに回復したのも、
この土地のおかげだと思う。
転地療養という言葉がある。
私はずっと、気候の違いのことだと思っていた。
しかし、違った。
人の考え方や食生活、豊かさの基準が変わることだったのだ。
単一栽培の野菜は、形や大きさは揃うが弱い。
自然農法の野菜は少し小さいが、日持ちする。
生命力が違う。
娘にとっても、この移住という選択は正解だったと思う。
そして、私にとっても。